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ことわざ界最強のトートロジー「犬が西向きゃ尾は東」に感じる「もののあはれ」について

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年が明けて戌年になったので、イヌにちなんだ知識でも蓄えておこうと考えて、ウィキペディアなどを回遊していると、「犬が西向きゃ尾は東」ということわざが言及されていて、突然「これは」とビビっときた。なかなかどうして、イヌにしては素晴らしいことわざである気がしたのだ。

これはいわゆるトートロジー(Tautology)というか、そりゃ、論理的に考えれば当たり前ですよねってことを、いい感じに表現したタイプのことばだ。たとえば、「無関心とは、関心がないということだ」とか言うと、よく意味はわからないがそれっぽくなる。ちょっとハルキムラカミっぽいのかもしれない。ハルキムラカミなら「無関心とは、関心がないということだし、それ以上でもそれ以下でもない。やれやれ」と続けるところだろう。

トートロジー的な表現が修辞学的に効果的であることは、他にも「蛙の子は蛙」とか「雨の日は天気が悪い」とか、この類のことわざが多いことからもわかるし、『ほしいものが、ほしいわ。』(糸井重里)とか商業広告のコピーでも数え切れないほど使われていることからも見て取れる。

しかしながら、論理的に当たり前のことに言うにしても、「どんな当たり前のことを言うか」は重要だ。その切り口によって、含意が大きく変わるからだ。

たとえば、「蛙の子は蛙」であれば「子の性質が親に似る」という主旨になるし、「ほしいものが、ほしいわ。」であれば何かブランド品のような物質的なものが欲しいという意味に加えて、「欲しいものそれ自体が欲しい」という第二の意味も解釈できるだろう。「雨の日は天気が悪い」についても「雨の日は(気分が沈んだとしてもあくまで)天気が悪い(のであって、自分が悪いわけではない)」という解釈を許す。

さて、冒頭の「犬が西向きゃ尾は東」をもう一度じっくり読みほぐしていきたい。

まず、辞書的な意味は「当たり前であること」とある。つまり、このトートロジーには余計な含意は無く、トートロジーそのものを意味している。これは、「あるがままである」という仏教思想的な普遍の真理というか、諸行無常というか、もののあはれを体現しているのだ。他のむやみな解釈を許さない。当たり前なのだ。トートロジーがはびこることわざ業界の中でも、トートロジーそのものの意味表現に成功しているのはこの「イヌ西」だけに違いなく、抜きん出た説得力を誇る。

次に、モチーフのチョイスもすばらしい。イヌだ。これは、ネコでもペンギンでもダメである。彼らが登場すると絵になってしまうからだ。これがヒトになるとなおさらダメである。ヒトが関わってくるとまた余計な暗喩が含意されてしまう。やはり、イヌがいいのだ。

そして、ジワジワ漂ってくる滑稽さもある。これは、イヌが舌を出してハッハッと西向きに佇んでいるさまを想像してみるとハッキリする。何というか、ノーテンキな阿呆らしさがあるのだ。「犬が」に続く「西向きゃ」という俗っぽい口語体もたまらない。「尾は東なんじゃ」と千鳥のノブあたりが言ってそうではないか。

このように「イヌ西」の良さをあげ始めるとキリがない。これは「普遍の真理」を「滑稽に」表現することに成功した、実にウィットに富んだことわざなのである。

ところで、この見事な「イヌ西」はどういう状況で使うことわざなのだろうか。普遍の真理であれば、あらゆる言明に打ち克つことができる。これはつまり、日常生活のあらゆるシーンで相手をマウンティングすることができるということだ。

ここでは一例を与えたい。「あの映画はクソだった」などという話をしている時に、「でもそれって人それぞれじゃない?」などと言って論破してこようとする人、たまにいるでしょう。次回はこう切り返してはいかがだろうか。

「まあ、『犬が西向きゃ尾は東』って言うしねえ」

ほうら、イッヌも真っ青のマウンティングっぷりでしょう。