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「なぜ」を繰り返していても、本質を見抜くことは出来ない

トヨタ式の『なぜなぜ分析』は、「なぜ」を5回繰り返して本質的な理由を究明する手段として有名だ。実際にはトヨタだけにかぎらず、ビジネスのさまざまなシーンで「なぜ」を繰り返し問うシーンが見受けられる。私も、就活の面接において、意思決定の理由を何度も「なぜ」と問われ深掘りされたことを(苦しかったので)よく覚えている。

しかし、「なぜ」という問いに答えるのは存外に難しい。特に、問いの主語が人間(顧客あるいはユーザー)であるときに厄介になる。「なぜ、顧客はあのメーカーのあの製品を選んだのか?」「なぜ、ユーザーがサイトから離脱してしまっているのか?」―このような問いに直面して、しばらくうんうん唸って考えたあと、「うーん、わからない。」となったことはないだろうか。(私はよくある)

さて、我々は、どうして考えが行き詰まってしまうのか。

曖昧な「なぜ」

そもそも、「なぜ」という問いは著しく抽象的だ。たとえば、子どもに「なぜ、歩行者は赤信号で止まるの?」という質問をされたとして、それに対する答えを考えてみて欲しい。たとえば、以下のような複数の回答が想定できないだろうか?

  • Development
    • 学校で教わったから
  • Evolution
    • 赤信号で止まるというルールが歴史的に発生したから
  • Function
    • 止まると安全だから
  • Mechanism
    • 赤い光に脳が刺激され、足を止めるから

人によっては、どれも答えになっているように思えるし、一部しか解答になっていないと思う人もいるだろう。同様に、あなたが「止まると安全だから」と言って「へー、安全だから止まるのか!」と理解する子どももいれば、「赤い光に脳が刺激され、足を止めるから」と答えて「なるほど、そうだったんですね。」と納得する子どももいるかもしれない。つまり、解答がここに複数あるかもしれないし、無いかもしれないのだ。これは、「なぜ」という問い自体がそもそも曖昧で、どの「なぜ」のことなのかが不明瞭であるということを示唆している。(ちなみに、この回答の分類の仕方は、実はティンバーゲンの4つのなぜとして知られているものだ。興味のある方は調べてみて欲しい。)

唯一無二の解は(ほとんど)ない

では次に、それぞれを「なぜ」で深掘りしていったらどうなるだろうか。

  • 「学校で教わったから」

    • →「なぜ?」
    • →「道路交通法によって規定されているから」
  • 「赤い光に脳が刺激され、足を止めるから」

    • →「なぜ?」
    • →「脳のシナプス間で伝達物質が輸送されるから」

てんで違う方向に議論が進むのがわかるだろうか。この例示から、「『なぜ』を繰り返せば一元的な本質に近付いていく」ということも全くの誤謬であることも認識しなければならない。

これは、我々が「本質」と呼んでいるものは「納得できる答え」にすぎず、唯一無二の解のことではないということだ。

問いに答えるための問いを立てる

それでは、このような複数の「なぜ」をどうやって考えいけばいいのだろうか。

本質に近づくための方法のひとつは、「問いに答えるための問い」を立てていくことだと私は考える。冒頭で示した「なぜ、ユーザーがサイトから離脱してしまっているのか?」という問いを例にしてみれば、「いつ離脱するのか?」「どこで離脱するのか?」「誰が離脱するのか?」・・・と、5W1Hで考えていく。ここで、これらの質問(5W1H)は、必ずしもそれに答えること自体が目的なのではなく、「なぜ離脱したのか?」という質問に答えるための思考材料として使う、ということがポイントだ。

Webマーケティングで仮説を立てるときによく用いられるファネル分析は「どこで」に注目したフレームワークだし、コホート分析は「いつ」に注目したフレームワークだと言えるだろう。いずれも、分析結果を思考材料として、仮説を立てるために使っていく。

仮説に貴賎なし

しかしながら、たとえいくつかの理由・要因らしきものが得られたとしても、納得できない、わからないものはわからない、ということもある。チームで仮説を出しているときはこういうことが頻繁に起こりうる。チームで人間の行動原理(ユーザーのアクションなど)についての議論している際に、これが正しいあれが正しい私はこうだ彼はこうだというやりとりをたまに目にするが、やっていることは痴話喧嘩と大差ない。これ以上議論しても仕方ない領域は明らかに存在するので、ある程度の粒度の仮説が出てきたら、小回りの利く施策を出して仮説検証に移った方がいい。ある段階まで来たら、仮説に貴賎は無いのである。