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『人間失格』を読んだ

十数年ぶりに、『人間失格』を読み直した。初めて読了したのは中学生のころだったように思う。当時と比べて、酒や煙草、あるいは上野とか銀座といった言葉にも、それなりにリアリティが伴うようになったことで、文章から想起される情景の解像度も格段にあがり、少しは深く読めたような気がした。いくつか印象に残った場面を抜粋したい。(※ネタバレ注意)

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、 「世間というのは、君じゃないか」 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

主人公・葉蔵が、「世間」というのはとどのつまり「個人」であると理解するシーンがある。私も幼少期に「みんな持ってるから」と言ってゲームをねだり、「みんなって誰よ」と母親に言い詰められたものだが、とかく人間は身の回りの少数に影響され、それがまるで世界であるかのように錯覚する。このような思考の歪みにより、たとえば周りに居る人がたったひとり変わるだけでも、思想がブレてしまうことが有り得ることを、心に留めて置かなければならないと感じる。

(ちなみに、このように自分の意見の主語を「世間」など不特定多数の集団にすげかえて発言することを「太宰メソッド」などというらしい。)

だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものを称となえていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋は世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当っての必要に応じて、いくぶん図々しく振舞う事を覚えて来たのです。

これは、葉蔵はその「世間」を渡っていく「わざ」は、「その場の一本勝負」でよいのだ、と思い至るシーン。もちろん、「決して、そんな一本勝負などで、何から何まできまってしまうような、なまやさしいところでも無かった」のだが、このようにある種の哲学にすがってしまう気持ちはいたくわかる。いくら人間が社会的な動物であるとはいえ、その場かぎりの勝った負けたで一喜一憂する生き方は、余りにも苦しいのではないか、と改めて考えさせられる。

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

『人間失格』は、葉蔵の手記を見付けた第三者が編纂し出版した、という設定になっており、はしがき・あとがきとしてその筆者と関係者の語りが挿入されている。あとがきで、葉蔵が妾をしていた女性のひとりが、こう吐露する。そのやや滑稽とも言える矛盾した構造には、「道化」から解脱出来ない人間社会に対してある種の諦念を示しているようにも感じられる。

→ 太宰治 人間失格(青空文庫)