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読み込み中にくるくる回るあれ

ジャズとデザインとプログラミング

伝えたいこととかあんまり無いんですよ

ウェブマガジンのVATEに、私が尊敬しているギタリストのひとりである馬場孝喜氏のインタビューが載っていた。

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阪大の理学部で物理学を学び、そこからミュージシャンとして生きていく道を選んだ、いわゆる変わり者だ。

音楽的には、ブラジルの音楽の原始性の話など強い共感を覚えた。しかし、より印象的だったのはその生き方だ。メジャーデビューの欲はないという馬場氏に、インタビュアーが将来の夢を問うとこう答える。

すみません・・。でもどうして自分がこうなったのか、とかわからないんですよ。自分が何者かもわからない。でもそれが楽しいみたいな。そういう人間なんですよ。

ああ、リアルだ、と思った。建前の夢や理想を語らず、こうやってあっけらかんと本音を吐き出す人はこの御時世珍しい。しかし、生きるとはきっとこういうことなのだと思う。

わからないものを、もっと慈しもう。

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『人間失格』を読んだ

十数年ぶりに、『人間失格』を読み直した。初めて読了したのは中学生のころだったように思う。当時と比べて、酒や煙草、あるいは上野とか銀座といった言葉にも、それなりにリアリティが伴うようになったことで、文章から想起される情景の解像度も格段にあがり、少しは深く読めたような気がした。いくつか印象に残った場面を抜粋したい。(※ネタバレ注意)

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、 「世間というのは、君じゃないか」 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

主人公・葉蔵が、「世間」というのはとどのつまり「個人」であると理解するシーンがある。私も幼少期に「みんな持ってるから」と言ってゲームをねだり、「みんなって誰よ」と母親に言い詰められたものだが、とかく人間は身の回りの少数に影響され、それがまるで世界であるかのように錯覚する。このような思考の歪みにより、たとえば周りに居る人がたったひとり変わるだけでも、思想がブレてしまうことが有り得ることを、心に留めて置かなければならないと感じる。

(ちなみに、このように自分の意見の主語を「世間」など不特定多数の集団にすげかえて発言することを「太宰メソッド」などというらしい。)

だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものを称となえていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋は世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当っての必要に応じて、いくぶん図々しく振舞う事を覚えて来たのです。

これは、葉蔵はその「世間」を渡っていく「わざ」は、「その場の一本勝負」でよいのだ、と思い至るシーン。もちろん、「決して、そんな一本勝負などで、何から何まできまってしまうような、なまやさしいところでも無かった」のだが、このようにある種の哲学にすがってしまう気持ちはいたくわかる。いくら人間が社会的な動物であるとはいえ、その場かぎりの勝った負けたで一喜一憂する生き方は、余りにも苦しいのではないか、と改めて考えさせられる。

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

人間失格』は、葉蔵の手記を見付けた第三者が編纂し出版した、という設定になっており、はしがき・あとがきとしてその筆者と関係者の語りが挿入されている。あとがきで、葉蔵が妾をしていた女性のひとりが、こう吐露する。そのやや滑稽とも言える矛盾した構造には、「道化」から解脱出来ない人間社会に対してある種の諦念を示しているようにも感じられる。

→ 太宰治 人間失格青空文庫

『確率論と私』を読んだ

伊藤清先生の『確率論と私』を読んだ。 先生が数学に出会い、確率解析の分野を作り出すまでの軌跡を描いた自著だが、心に響く内容だったのでここに記す。

数学と色即是空

まず印象的だったのは、『般若心経』の引用から始まる、先生の数学に対する解釈だ。

「色即是空、空即是色」は、日本的なもののあはれを表現したものとされるが、文字通り読めば、「色は空であり、空は色である。」と言っているに過ぎない。これを数学者的な目線で見れば、色は具象と、空は抽象と見なすことができる。つまり、「抽象と具象は切って切り離せないものである。」という意味の主張であると理解できる。

たとえば、数理科学において水面を平面と呼ぶことがある。しかし、我々が実際に現実で出会う水面は、どちらかと言えば球面である。この時、平面とは接平面を考えており、つまりは数学的な抽象化―局所的な特徴を無限遠点まで広げ、理想的な空間を脳内に描くこと―を行っている。

種々の数学分野は、ほとんど具体的な事象から萌芽している。純粋数学が発展して、それを応用数学として適用している、という順序関係を(数学徒ですら)頭に描きがちだが、実際には数理科学(今は応用数学と呼ばれがちだが)が発展する流れの中で、純粋数学として独立して数学の体系化が図られた。この時、純粋数学は、応用数学の正当化として理解される。

数学、人間、そして世界への愛

伊藤先生は、自らが戦争を乗り越えてきた経験から、あらゆる戦争には反対している。しかし皮肉にも、自らが開拓した確率解析の分野が今や、トレーディングという経済戦争の強力な道具として使われている。何よりも、数学者を志した学生の一部が、戦士として経済戦争に駆り出されている現状に悲しみを感じるようだ。ここに、学生への強い愛を感じる。

伊藤先生は、80歳の誕生日から『森の人』という物語を書き始めたらしい。核の冬を乗り越えた2万年後の人類が、現在とは異なる価値観を持って森の中に再生する物語だそうだ。その価値観というのが、困難や誤謬の中で挫けそうになりながらも尚、人間を人間たらしめている「心の暖かさ」や「志の高さ」を失わない、本当の意味での「人間らしい叡知」だという。ここに人間、そして世界への愛を感じる。

数学者は詩人である

もちろん、数学者としての能力は言うまでもないが、通読中にところどころ感じたのは伊藤先生の多方面に渡る教養と思慮の深さである。ソ連のコルモゴロフとロシア語で挨拶をするシーンや、トレーディングに熱狂しているディーラーたちの様子を想像して、『杜子春』を思い出すシーン。漢文の引用もあれば、もちろん英文の引用もある。釣りはやらないが釣りのエッセイを読むのが好きとかいう、酔狂なところもある。数学者の道を指して”詩人”の生き様と述べていたが、また文豪のようだ。

「これを能くする者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。」という先生の信念は、「与えられた問題を早く解く能力があるだけでは、よい研究者になれません。自分で問題を見つけ、自分のやり方で考えるのが好きな学生が、何年かかっても、考えること自体が楽しいというような仕事をしてほしいものです。」という言葉で学生に伝えられた。先生は数学者という詩人の道を、心の底から楽しんで歩んで来たことは言うまでもない。こういう生き方を私もしたい。

時間と空間の森の小道を彷徨いつつ、60年を確率論と歩いてきた私は、この原稿を書きながら、頭の中でもう一度、私の時間を歩きました。現実には、歩くことが出来なくても、頭の中で歩くことが出来て幸せでした。私は文字通り「考える葦」になったのです。

いわゆる数学者、のイメージが変わる本。数学科に入学する前に読みたかったほどの名著である。 愛を忘れたときにまた読み返そう。